|
「崇める」は読み方を忘れてしまったような言葉です。辞書で引くと、「極めて尊いものとして敬う」とあります。これはもう“神様”にしか使えない言葉のような気がします。崇める対象としての“神”はどんなイメージでしょうか?
まず心に浮かぶのは、天地万物の創造主、人智を越えた偉大な叡智、永遠のいのちの源など。このような絶対的な存在を神として崇める時、人は自分の不完全さを認めざるを得ません。そして人間の分際をわきまえることになります。太陽や大自然の霊峰を“神”として崇めた古代の人たちも、畏敬の念で謙虚になったことでしょう。
ところが特定の人やモノを“神”として崇めることがあります。更に己が神のように崇められたい、栄華を極めたいという欲望も強いようです。それは「幸せの基準」を権力や富、地位、名誉などに置き、人生の最優先課題として追求するからでしょう。しかし崇める対象を誤ると、その末路は破滅です。それは人類の歴史が証明しています。そのような「偶像崇拝」に陥ることなく、真に崇めるべき“神”は存在するのでしょうか?
聖書に次の言葉があります。
『憐れみと赦しは、主である神のもの。』(ダニエル 9・9)
イエス・キリストは天地万物の創り主である神に「アッバ!」と呼びかけて、“憐れみと赦しの愛の神”として人々に示されました。「アッバ!」とは幼児が父親に甘えて呼ぶ言葉で、「パパ」とか「お父ちゃん」という意味です。つまり絶対者である神を幼子のように信頼することを勧めたのです。
キリストの神は、心から信じて崇め敬う者を無条件の愛と赦しを持って愛して下さいます。その愛の実感は、困難に耐える力や希望、生きる喜びや平和となって、心の確かな拠り所となるのです。
|